春がもう終わるなんて信じられないくらい寒い日だった。細い糸のような雨が絶え間なく降って、夕方の通学路を灰色に染めていた。
カーディガンのそでをブレザーから引っ張り出して、手に息をふきかけた。それから傘をひらいて歩き出す。でこぼこのアスファルトには水たまりがたくさんできていて、足をぬらさないようにずっと下を向いていた。昼からふり出した雨は穏やかなもので、傘に当たってもあまり音がしなかった。

しばらく行くと、前をいく男子生徒の足がみえた。アスファルトにたまった水をびしゃびしゃ跳ねあげて歩いている。スニーカーがぬれるのもお構いなしだ。
どこか投げやりに感じるその足の持ち主が気になって、視線をあげた。黒い学ランの背中。頭のてっぺんに、ぴょこんと髪の毛が立っていた。

「山口くん!」

呼びかけたというより、驚いて声が出てしまっていた。
振りかえった彼の頭にちいさな水滴がいっぱいついて、キラキラしていた。「さん、」きょとんとした声で返事をしてくれる。

「傘ないの?」
「……忘れちゃった」

そうこたえる山口くんはいたって普通だった。今も雨にぬれ続けているのに気にするようすがない。それをなんだか変に感じた。
同じクラスの山口忠くんは、バレー部で、いつも親友の月島くんと一緒にいて「ツッキー!」と明るい声でしゃべるのだ。わたしはその声をきくのが好きだった。教室のなかに楽しいことがあるのだと知らせてくれるような、喜びに満ちた声だったのだ。
でも今の山口くんはちがう。
わたしは傘の持ち手を握りしめた。息を吸う。自然に、自然に。

「帰り道こっちなら、傘、入っていく?」
「えっ」

言えた。

「冷えちゃうよ」
「いや、でも」
「カゼひいちゃうし」
「……じゃあ、坂ノ下まで」

ということになった。
わたしが強気に押したのは理由がある。遅い帰り道には誰もいなくて、雨が降っていて、山口くんは元気がなさそうだった。
すごく仲がいいというわけではない。ただのクラスメイトだ。わたしが一方的に、山口くんのことを気にしているだけの。

背の高い山口くんが腰をかがめて、わたしの傘に入ってくる。傘をかたむけると雨の音が消えて、山口くんの「ごめん」という声がよく響いた。

「全然、全然」

首を横に振りながら、わたしはいたたまれない気持ちになっていた。傘の模様が女の子らしいから。何日もかけて選んだお気に入りの傘だけれど、こんなことならもっと無骨で、大きい、黒い傘でも持ってくればよかった。

「あの、俺が持つよ」
「いや、大丈夫!」

そのうえさらに、かわいい傘を持たせるわけにはいかない。わたしは精いっぱい手をのばす。山口くんは隣に並ぶと背が高くて、すごく高くて、わたしと同じ傘に入るにはアンバランスだった。

「入れてもらってるんだし、俺、持つよ」

……そういうことになった。
わたしの無様な姿に気をつかってくれたことがよく分かる。恥ずかしくて、いたたまれない。
山口くんの大きな手が、差しかけた傘を受け取ってくれる。ぐんと高い位置に傘がのぼって、わたしの顔に水滴がぱらぱらと落ちかかった。

「山口くんは背が高いね、何センチあるの?」
「179センチ……」
「すごいね」
「すごくはないよ」

わたしは心から感嘆して言ったのだが、山口くんは淡々としていた。もしかして、月島くんが一緒にいないせいかもしれない。教室での高いテンションは月島くん専用なのかもしれない。
けれど私は、そうでない時の山口くんを知っている。理科の実験のときに、同じ班のわたしを邪険にしないで、ふつうに話しかけてくれたこと。プリントを集めに行ったとき、嫌な顔をしないですぐに出して渡してくれたこと。特別に仲良しな相手ではなくても、ほっとするような優しさをみせてくれること。

「山口くんくらい背の高い人はあまりいないから、すぐわかったよ」
「ツッキーとか影山はもっとでかいよ」

ここで月島くんの名前が出てきた。楽しそうな口ぶりではない。月島くんと喧嘩をしたのかもしれない。そうでなくても、きっと何かあったのだ。

「影山、くん……?」
「あ、バレー部の。一年で、セッターなんだ」
「なるほど……」

その影山くんとトラブルがあったのかもしれないし、わたしのまったく分からない何かかもしれない。なにせわたしは背の高い人がいっぱいいることもよく知らないくらいだから、山口くんの悩み事を推し量ることはできないだろう。
だから素直な感想を口にする。

「わたしからすると、そんなに背が高くても逆に困りそう……」
「そっか」
「月島くんってキリンみたいだよね」

そう言うと山口くんはびっくりした声を出した。「キリン……!?」って。唐突だったかもしれない。というか、親友をキリンに例えられて、嫌な気持ちになったのかもしれない。
悪口では、ないんですよ。

「私、動物園いくといつもキリンみるんだけど、前に行ったとき、寝てて」
「へえ……」
「首がぐにゃぐにゃだった」
「ぐにゃぐにゃ……」
「キリンって大きいからけっこうインパクトあって……フラミンゴみたいに、首をぐにゃって折り曲げてた」

むりに話題をつなげるわたしに、山口くんは戸惑っているようだった。でも合わせてくれている。いいひとだ。
わたしはあとに引けなくなって、ぐにゃぐにゃトークを続ける。

「フラミンゴって首の骨が17個あるんだよ。だからあんなにぐにゃぐにゃに曲がるんだって」

ちょっと面白いよね。
前を向きながらそう言った。山口くんが差しかけてくれる傘はわたしの視線よりずっと上にあるから、通学路の景色がよく見えた。木には初夏の葉っぱが青々としげっていて、遠くの山も青くって、雨にかすんでぼんやりしていた。

「ツッキーがキリンみたいで、ぐにゃぐにゃなのかと思った」

ぽつり、こぼすように山口くんがつぶやいた。それはわたしの話への感想ともとれたし、月島くんの悪口じゃなくてよかったと言っているようにも思えた。どうやら喧嘩をしたわけではないようだった。

「月島くんはぐにゃぐにゃしてないよね! むしろ姿勢いい」
「うん、ツッキー姿勢いいよね」

山口くんはそこでやっと、ちょっと笑ってくれた。いつもの、クラスメイトに向ける笑顔で、わたしはほっとした。
ぐにゃぐにゃしているのはむしろ、今の山口くんのほうだった。
大きな体を折り曲げてわたしの傘に入ってくれて、そしてすこし落ち込んでいるらしくて。だから妙に、意識してしまった。

さん、動物園すきなんだ」
「動物園、面白いよ。ゾウとかすごく大きいし、鳥もいっぱいいるし」

ああ、ふつうの話だ。いつもの山口くんだ。
こたえる声が弾んでしまって、ことのほか緊張していたことに気づく。山口くんには、わたしが動物園をすごく好きだからはしゃいでいると、思われているかもしれない。そうだったらいい。

「しばらく行ってないなー」
「ちょっと遠いよね。バスとか乗るし」
「うん。小学生のとき、バスに乗って行った」
「爬虫類館とか、苦手だったなあ」
「え、俺けっこう好きだった」
「すごい……」

とりとめのない話をした。教室で月島くんに話すのとはちがう静かな声が、傘のなかにこもって聞こえた。
隣を歩く山口くんの腕が、わたしの肩にふれる。学ランはかさかさして、かたい。すこしぬれている気がする。制汗剤のにおいがする。それに混じって、知らない家のにおいがして、山口くんはこんななんだと思った。そっと視線をあげて、隣にいる彼を盗み見た。

「……山口くん、肩、ぬれてる!」

今さら気づいて大きな声が出た。
山口くんの傘を持つほうと反対の肩が雨にさらされて、ぬれているのだった。彼はずっとわたしのほうに多く傘を差しかけてくれていた。それに思い当たって、胸のあたりがしめつけられるような気持ちになった。

だって、山口くん、落ち込んでいたんじゃないの?

そんなときにも人のことを気づかえるなんて、あるんだろうか。
山口くんの持っている傘の取っ手をぐいと押した。あまり動かなかった。山口くんは「いいよ」と言った。よくなかった。

「山口くん、力いれてる?」
「全然入れてない」
「鍛えてるんだね……」

よく考えれば、制汗剤のにおいがする山口くんは、帰り道に誰もいなくなるまでずっとバレー部にいたのだろう。わたしが友達と話したり、メールを打ったりしているあいだ、ずっと走り込みやら練習やらしていたのだろう。

「すごい、がんばってるんだねえ」

ひとりで納得してしみじみしてしまった。
そんなわたしをどう思ったのか、山口くんは息を一瞬つまらせた。すこし遅れて「ありがとう」と聞こえて、でもそれはかすかな、聞き取りづらいものだった。
……引かれてしまっただろうか。
せっかくいい感じにお話しできたのに、言い方がよくなかっただろうか。ひとりで帰る山口くんを見てから今までずっと、わたしはちいさなことを気にしている。山口くんの気持ちをずっと気にしている。

こわごわ、傘を持つ彼を見上げてみる。すると、ばっちり視線が合った。山口くんはびっくりしていて、大きな目を見ひらいて、頬のあたりが赤かった。

「ごめん、さん、俺ここで」

山口くんはわたしの手に傘を押しつけるようにして、雨の中に飛び出していった。とたん、初夏の雨が山口くんに降りかかった。黒い学ランの背中をむけて、山口くんは走り出した。坂ノ下まで。傘の売っているところまで。
さっき見た顏のことをどうとらえたらいいのだろうか。

さん、ありがとうー!」

最後に振りかえって、山口くんはわたしに聞こえるようにお礼を言った。ありがとうって、何に対して? 傘のこと? それとも、わたしが山口くんのこと色々考えてしまって、心配したり、元気づけようとしたり、そういうのが伝わってありがとうと言ってくれたのだろうか。
傘の持ち手を握りしめる。まだ体温が残っている。
人がひとり抜けて傘の中は前より寒くなったはずなのに、わたしは妙にあたたかかった。胸が速くて、どきどきして、なんだか痛いほどだった。
雨にぬれた緑が甘いにおいをさせていた。もうすぐ梅雨になる。雨がもっとたくさん降って、それが上がるころ、夏がくる。
明日も学校に行けば、山口くんに会える。同じクラスに。明日の彼は元気だろうか。ツッキーって、明るい声を聞かせてくれるだろうか。

わたしは最近、そんなことばかり考えている。







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