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 主の自覚が足りないのではないか。
 歌仙兼定はそう言った。
 最初の出陣で、ただひとりの彼が重傷を負ったとき。あわてて手入れをすれば、どうして主のほうが死にそうな顔をしているんだと。
采配が悪かったから、といえばそもそもそれが違うという。よく分からなかった。
 そしてはじめての食事の時間で、一緒に料理をしようと持ちかけたら、彼はわずらわしげに手を振った。
「君は何もしなくていい。主らしく構えていてくれ」
 歌仙兼定は料理が得意だという。たしかに、彼のつくるものはどれもおいしかった。知らない料理も、調理法を読むだけですぐものにしてしまう。
 それなのに刀剣男士全員に、感想というものがなかった。なにを食べても美味いも不味いもない。
 サンドウィッチについて意見を求めれば「すかすかする」と言うので、次の食事は米にしてみたのだが特に反応はなかった。ならば好みではないかとたずねれば、そんなことはないと否定する。
 刀と打ち解けることができていない気がする。
 忠誠心が高いといわれる短刀相手にもそうだ。
 最初に鍛刀した五虎退はいかにも気弱そうだった。隊長にすえれば出陣が嫌だといったので、いろいろと遊びを教えた。人の身を得たからといって戦うばかりではなく、楽しいこともあるのだと知ってほしかった。
 けれどどんな遊びをしても、五虎退は楽しそうにはみえなかった。あやとり、駆けっこ、ほかにも現代ふうの遊びをいろいろ。そのどれもに、困ったように微笑むばかり。
 人間と遊ぶのでは楽しくないのかもしれない。五虎退には兄弟刀がたくさんいるという。だから鍛刀をすることにした。
 秋田藤四郎、乱藤四郎、前田藤四郎を顕現させた。彼らははじめて顔をあわせた時から仲よしで、ほとんどいつも一緒にいた。すこしさびしくもあったけれど、五虎退の心が安らぐならそれでよかった。
 あるとき、短刀たちが廊下を走り回っていた。執務室の障子にちいさな影がうつったのだ。軽やかに駆ける足音が楽しそうでうれしくなった。
 ただ走るだけでなく、鬼ごっこでもしたらどうか。そう声をかけようと障子をひらいた。
 そこにはだれもいなかった。
 しんとした廊下の先に、みどりの庭があるばかり。なんの物音もしなかった。
 先ほどまで確かにすぐ近くを走っていたのに、もういなくなってしまったのか。
 夕飯時にたずねてみた。すると短刀たちはみな廊下にいたという。どうしてか自分には見えなかったらしい。さすがに戸惑ったが、思い返せば自分にはもともと霊感というものがなかった。審神者になったからといってその手の勘が鋭くなるわけではない、ということなのだろう。
 付喪神は人間ではない。
 いくら人らしい見ためと振る舞いをしていても、その本質は人に理解できるものではない。
 刀の群れはもの言わず食事をたいらげて、誰が示し合わせたわけでもないのにまったく同時に馳走のあいさつをした。整然と並ぶ彼らを上座から見わたすうちに、ようやくそのことが諒解されてきた。

 確信したのは、一期一振が来たときだった。粟田口吉光ただ一振りの太刀。上品できらびやかな外見とその強さによって、審神者の間でも特に求められる刀だ。
 知らず安堵の息がもれた。
 霊感にとぼしい自分でも稀少な刀剣を呼ぶことができた。粟田口の短刀たちが、鍛冶場に顕現した彼に向かい走ってゆく。みなが笑顔を浮かべている。眺めていると、弱い力ですそを引かれた。五虎退だった。
「あるじさま、ありがとうございます」
 五虎退はおずおずとこちらを見あげ、控えめに笑ってみせた。
 胸のうちに光がともったような気がした。一期一振が来たことで、審神者と刀剣男士の間にある壁もとり払われるのではないか。
 その所作からも人気が高い一期一振は、審神者と恋仲になることもしばしばだという。男女問わず情を交わすことがある、という話にはうなるばかりであったが――それはつまり、人と心を通わせることができるということではないか。
 短刀たちの背を叩き、頭をなでて再会を喜びあっている。弟たちに微笑みかける金の双眸は、やさしい兄そのものだった。
 五虎退をそばにおいたまま、その輪に近づいていく。
 短刀たちは喋るのをやめ、一期一振も居住まいを正した。自分が審神者であること、きみがきてくれてうれしく思うこと。それを告げて右手をさし出す。あいさつとして手を握ること、一期一振はそれを分かっているようだった。「ええ、こちらこそ」と頷き、手袋をまとった右手をすべりこませてきた。
 とたん、右手が鋭い熱を持った。
 ぎゃっと声をあげて手を引くと、右の掌がぱっくりと切れているのだった。赤い傷口から血の珠がいくつもすべり落ち、袖口を汚した。痛みより驚きが先に立った。
 手と手がふれあうかどうか、その一瞬のうちに。
 ぼうぜんと一期一振を見上げる。
「ああ、これは失礼」
 彼は何食わぬ顔で懐紙をとり出すと、それで自分の手袋についた血をぬぐった。「これしきの汚れで主の手を煩わせるわけには参りませんので」
 薬研藤四郎が笑った。
「大将、この通りいち兄はすこぶる切れ味がいい。戦場での活躍、期待してくれていいぜ」
「もう、いち兄、うっかりしてるんだから」
 乱藤四郎が兄の失態をからかうように言った。
 誰も、こちらの心配などしてはいなかった。ぬるつく右手をおさえながら「これから、よろしく」かろうじてそれだけを口にした。
 右手の傷はなかなか治らなかった。包帯から血がにじみ出し、痛みをおぼえるたび、彼らは自分とは違うものなのだと思った。

 いつしか彼らと食事をとらなくなった。
 一期一振がこともなげに言ってみせたからでもあった。
「私たちは刀ですから、食事は必要ありません」と。
 今では付喪神たちが食事をしているのかも知らない。

 任務はこなす。
 けれど、演練に行けばよその部隊を見る。彼らは弁当を囲みながら、卵焼きやにぎり飯、からあげなどをわれ先に奪い合っている。誉をとったら頭をなでてね、そうねだる短刀の姿を見たこともある。
 よその一期一振は小柄な審神者に寄り添って、段差につまずかぬよう手をとって先導していた。むろん、むこうの審神者は怪我などしてはいなかった。

 毎日変わらず出陣する。
 練度が上がってきたおかげで傷を負うことも少なくなったが、一度だけ、重傷者が出たことがあった。
 伝令に走ってきた五虎退が血まみれで、仰天して怪我の具合をたずねるのだが、彼はちいさな頭を懸命に振るのだった。
「歌仙さんの手入を」
 五虎退を赤く染めるそれは歌仙の血であった。斬られたときに近くにいたせいで血を浴びたのだという。歌仙兼定は初期から隊長をつとめている、隊の主力である。急ぎ様子をみようと、部屋を出るため障子をあけた。
 とびらの向こうに歌仙が立っていた。
 いつの間に来ていたのか、目の前に立ちふさがる彼に思わず一歩、しりぞいた。歌仙はこちらを無表情に見下ろして、足元に何かを投げてよこした。
 べしゃっ。
 音をたてて落ちたそれは歌仙の右腕であった。
「まったく、衣が台無しだ」
 ため息をつく歌仙は血と泥に汚れて凄惨なありさまだった。目をそらし、落とされた右腕を拾い上げようと手をのばす。「そんなもの、どうするつもりだい」不機嫌な声に顔を上げれば、歌仙は呆れたように眉根を寄せているのだった。痛くないのか。おそるおそるたずねた。
「痛いさ。決まっているだろう」
 とてもそうは見えなかった。それから手入れを済ませて執務室へ戻ると、投げ捨てられた歌仙の腕はあとかたもなく消えていた。
 翌日から控えめに出陣するようにした。刀剣たちはもっと戦いたいと文句をこぼした。怪我をしてほしくないのだ、そう言うと「はあ?」心底分からないというふうに。
「俺たちは道具だから、いくら欠けても問題はない」
 そうではない。
「昨日の手入れが響いているのかい? 霊力を使わせてしまって主も疲れてはいるだろうが、戦の采配とは別の話だろう」
 そうではないのだ。
 こちらの思いをまるで分かっていない様子に、なんの言葉も出てこなかった。
 結局のところ、実際に命を張るのは彼らなのだ。その意見を尊重しなければならない。
 食べる必要がなく、腕を落としてもくっついて、おのれを道具と自負するものたちを、人間扱いするほうがおかしいのだろう。だが割り切れなかった。
 自分は審神者に向いていないのではないか。
 もっと霊力の潤沢な、刀の意思を重んじる審神者のほうがよいのではないか。
 このころは本丸の引き継ぎもおこなわれているという。この本丸に稀少な刀剣は一期一振ただひとりだけだが、みな墨俣の本陣を軽々と討ち取れるほどには強い。申請書を出せば引き継ぎの希望者があらわれるかもしれない。
 そんな夢想をするうちに、執務室へこもりがちになった。
 ひとり分の食事を準備してひとりで食べることにも慣れた。
 なにものかの気配がする本丸で、ときおり子どもの笑い声をききながら、刀についた血をぬぐう。
 ここで生きているものは自分だけなのではないか。夢うつつのように思うそんな日々に、その刀はやって来た。


 「私が小! 大きいけれど!」
 桜吹雪が舞っていた。
 おどけるような、誇るような、ふしぎな深みのある声だった。あっけにとられて見上げていると、その刀は興味深げに目を細めた。
 小狐丸。
 墨俣へ行った部隊がもち帰ってきた見慣れぬ刀は、そう呼ばれていた。稀少ではないといわれているが、その気位の高さからめったに現れないという太刀。まさか、この本丸で出会うとは思ってもみなかった。
「ぬしさま?」
 あまりに呆けていたらしい。大きな身をかがめて小狐丸はこちらの顔を覗きこんできた。そのひょうしにふわり、よい香りがした。文香につかわれるような、上品な。一瞬それに気を奪われて、でも早くこたえなければと思い直して、ほぼ無意識に右手をさし出した。
 あ、また斬られる。
 気がついてひやりとした。小狐丸はその心を知らずか、いちど瞬きをして。
「ぬしさまの時代には、こうして親愛を示すのですね」
 両の手のひらで右手を包みこんできた。あたたかい、肉厚の手のひらだった。
「手が、あたたかい」
「いまは人の身。男士、でありますゆえ」
 驚いていると、おどけたように小狐丸はこたえた。ほんとうの人のように。
 手をにぎったまま小狐丸を見あげる。つないだところからじわじわと、しみだすように体温が伝わってくる。
「小狐丸は、なにか食べたいものは」
「食事ですか。では……油揚げを食べてみとうございます」
 はじめてだった。
 このような会話をしたことも、人らしい希望をきいたことも。
 感激しているこちらをどう思ってか、小狐丸はうっそりと微笑んだ。人間離れした色の赤い瞳に、慕わしさをおぼえた。
 

 小狐丸はおもしろい。
 馬当番をやらせれば馬に無視されたという。ばかにしてやろうと思ったのに。と、おどけて報告してくる彼は本当に馬を化かす気があったのかあやしい。
 刀剣男士が泥汚れをつけて姿をあらわすのも新鮮だった。いままでは内番着といえどほこりひとつない状態で報告にくるものが多かったから。
 黄色い帯で髪をくくっているのが似合うと言えば、「ぬしさまはこの毛並がいいとおっしゃる」小狐丸は尻尾のように結った後ろ髪をつまんでみせた。
「ときにこの畑では大豆を育てているとか」
「うん、土がいいから大体のものは育つと」
「ではぬしさま、次の畑当番にはこの小狐をお入れください。お手隙のときはいらしてくださると幸い」
 にこやかに提案する小狐丸に、思いついて言ってみた。
 一緒に畑をしようか、と。
「ぬしさまがよろしければ、それもよいかもしれません」
 やわらかな答えに、しみるほどの幸福をおぼえた。
 本当はたずねるのに勇気がいったのだ。以前、歌仙が畑仕事に文句をたれたので、ともにやろうと申し出たことがあった。すげなく断られ、「主は僕らとの距離が近すぎる」と小言ももらったのだが。
「内番は刀剣男士の能力を上げるためのもの。ぬしさまのお手をわずらわせるようなことはありませんが、見ていてくださればやる気も出ますゆえ」
「じゃあ、大豆がすぐ育つように、毎日見にいくから」
 そう告げると小狐丸は目を細めてうなずいた。
 日常の庭は青く、空もまた抜けるようだった。それまでなんとも思っていなかったその風景を、はじめて美しいと感じた。
 意外だったのは、内番に顔を出すことを喜んだのが小狐丸ばかりではなかったことだ。
 手合わせをする一期一振が、弟の成長をみてくださるのですね、と言った。
 兄に向き合う五虎退が、あるじさまがいてくださるならがんばります、と短刀を右手に構えた。常になくりりしいその顔を見て、彼に薄いそばかすがあることにようやく気がついた。
 今まで見ているつもりで、彼らのことをほとんど知らなかったのではないか。
 その証拠に、歌仙もこの内番見学にいい顔をしたのだ。
「視察とは殊勝な心がけだ、君にも主の自覚が出てきたのかな」
「小狐丸に、畑を見にいくと言ったから」
 みなの仕事を見てまわるようになった経緯を簡単に話すと、歌仙はおや、と眉を上げるのだった。
「約束をしたのかい」
「そうなるのかな。大豆がすぐに育つようにと」
 ふうむ。
 彼はそのまま顎に手をあてて何事か考えていたが、ものの二三秒でうなずいた。
「きっとすぐに育つだろうね」
 歌仙がこちらのやることを認め、励ましてくれた。そのように思われた。
 まるで本丸に新しい風が吹いているかのようだった。小狐丸のひとことで、彼がこちらを肯定してくれることで、何かがいいほうへ向かっている気がした。
 もしかすると立ちどまって考えてみるべきだったかもしれない。歌仙のことばの意味を。彼がそのとき、ひとつの笑みも浮かべていなかったことを。
 
 歌仙の言うとおり、大豆はすくすくと育った。魔法のように。
 朝に種をまけば昼には芽が出て、夕には青々とした葉が畑を埋めつくしているのだ。屈みこんで観察しても、根や茎にわるいところは見受けられなかった。
 これは小狐丸が何かしたのだろうか。
 ふしぎに思い、彼を見あげた。降りそそぐ陽光をまぶしげに受けながら、小狐丸は口元をつりあげた。
「ぬしさまの霊力が、畑に流れたゆえかもしれませぬ」
 そういうこともあるのか。
 審神者のマニュアルによると、内番で能力が上がるのは労働を通して何がしかの力をつけるからだという。では審神者が力を添えてやれば、畑の土も刀剣男士も、常よりもよい成果をあげることができるということか。なんだか拍子抜けだ。いままで畑の野菜は自然の速度でしか育たなかったのに。何をしている実感もなく、こんなに育つようになるなんて。
「それにしても、ぬしさまの焼いてくださった油揚げはそれは美味でしたが」
 小狐丸がしゃべり始めて、考えていたことはどこかにいってしまった。座りこむこちらに手をさしのべて、にぎり返せば軽々と立たせてくれる。
「小狐丸は、ぬしさまの手になる油揚げを食してみとうございます」
「つくるのか。つくれるのかな、油揚げ」
「ぬしさまならば。ともに作業をいたしましょう」
 黄色い帯でまとめた白い髪が、ふわふわと風にゆれていた。なぜか胸のうちまでくすぐられるような奇妙な心地がした。
 おだやかな声に導かれるように「うん」と、了解を返していた。小狐丸はそれは嬉しそうに微笑んだ。この刀はいつもそうだ。出来あいの油揚げをフライパンで焼いて、料理ともよべないものを出したときでさえ、いたく感動したふうに喜んでくれた。何かをしてもらう、そのこと自体が嬉しくてならないというように。
 そうした交感は、こちらの求めているものでもあったのだ。

 ふしぎなことに、小狐丸と一緒だと大体のことがうまくいった。
 油揚げをつくる、など今まで考えもしなかったのに、ふたりでやれば本当にできたのだ。手を動かすたびに思った以上の成果が出て、豆を加工する、その手順もどうしてか一日ですべて済んでしまうのだ。
 おかしいなあと思いながらも、うれしかった。楽しかった。
 ふたりで炭に火をおこして、油揚げを網焼きにした。フライパンで焼いたときよりもおいしくて、まろい炎に焼かれた油揚げに顔をみあわせて笑った。
 七味に醤油、いろいろな味をためしていると鳴狐がやってきて、いいなあ、と言うのだ。もの静かな彼が直接声に出してまで。
 小狐丸は無言のまま、鳴狐を一瞥した。そのとき、油揚げの焼いたのは小狐丸にやる約束だった。
 とりあえず煮ていたお揚げに残りのごはんを詰めて、小さな稲荷ずしをつくった。それを鳴狐に渡すと、口にするやいなや、いつも眠たげな彼が驚いたように目をしばたたいた。
「おいしい」
 不可思議な反応だった。いままで何を食べても、何も言わなかったのに。夢中で食べて、鳴狐は稲荷ずしを持っていた手をぼうぜんと見つめた。こんなにおいしいものは食べたことがないと、全身で言っているようだった。
 それから刀たちは食事をねだるようになった。
 歌仙のつくったものではなく、審神者がいちど手を通したものを。とくに、よく育つようにと見て回っていた畑の作物をつかうことを喜んだ。畑になっていたキュウリをはさんでサンドウィッチをつくれば、「おいしいです!」と言う。最初に食べたときはすかすかすると不満顔だったのに。
 本丸の大広間に、かつてのような静寂はなかった。思い思いに座った男士たちは箸を手にもうぜんと食事をしている。あれが美味いとか、これは熱いからやけどしないようにとか。
 にぎやかな食事風景に、隣で給仕を手伝っている歌仙がため息をつくのだ。いつもと同じ、ちいさなリボンで髪を結わえて。
「歌仙、なにか知っていた」
「当たり前だ。こうなると思ったから僕が食事番を申し出たんだ。言っただろう、何もしなくていいと。主らしく構えていてくれと。そもそも、」
「あるじさま、すみません……」
「五虎退」
 歌仙の小言に割って入るように五虎退がやってきて、その手には空になったお椀があった。申し訳なさそうにおずおずと差し出してくる。彼は虎にも食事を分け与えているので、まめにおかわりをするのだった。
「五虎退は明日の演練にも出るから、たくさん食べて」
「ありがとう、ございます。あの、僕、……にんじん、好きです」
「じゃあ多く入れよう。歌仙に教えてもらった、花のにんじん」
 どうせなら花型にしたほうが華やかでいいと、歌仙につつかれながら切ったものだった。筑前煮の鍋からにんじんを多めによそってやると、五虎退は椀を覗きこんで頬を赤らめるのだった。
「あの、あるじさまは、お花がすきなんですか」
「うん、まあね」
 作業は大変だったけれど、たしかにぶつ切りよりは花型のほうが情緒があるように思えた。
 五虎退はまたしばらくお椀のなかを見つめて、うつむいたまま「素敵です」と言って席に戻った。
「歌仙、素敵だってさ」
「……君は、主としての自覚が足りない」
「前にもそれ言った。歌仙の気づかいはありがたいけど、こうして自分でやらないと分からないこともあると思う」
 歌仙はそれ以上何も言わなかった。こちらの答えにどう思ったかも、何も。
 もうため息さえつかず、手元の鍋に視線を落としてじっとしていた。前髪は上げられていたのに、その顔からはどんな感情も読みとれなかった。

 翌日の演練では無傷の勝利をおさめた。
 ねぎらいも込めて、それぞれの好物をつめた弁当をみなで広げた。おいしい、おいしい、と喜びに声をあげて、笑いあいながらの昼食となった。
「しゃけのおにぎり、おいしいです」
「主、私もしゃけが好きです」
 おにぎりを両手に笑う五虎退に、一期一振がまじめにうなずいた。いち兄、なんか変だよ。乱藤四郎が笑う。僕はお漬物が好きです、前田が言う。秋田はおにぎりの海苔がやわらかいのが好きだといって、海苔を巻いたあとじっと手のなかであたためていた。
「ぬしさま、茶を取ってはくださいませんか」
 小狐丸がそう言うので、ついでやると湯呑をもつ手に手を重ねて動こうとしない。それでは取れないでしょう、と一期一振が淡々と指摘する。五虎退がそのやりとりを見つめていて、手にもったおにぎりがぽろぽろと崩れた。五虎退の白いひざに落ちた米粒を、小虎が寄っていって舐めとる。
 自分の隊の、粟田口や小狐丸の声を聞きながら、なぜだかすこし泣きたくなった。ウインナーはタコがいいとかカニがいいとか、お茶は熱いほうがいいとか。食べる必要はないと言っていた刀剣男士が食事を楽しんでいる。
 それはいつか、演練で焦がれた風景そのものだった。
 気がつけばごく自然に、この隊もそんな和やかなものになっていたのだった。
 

 その夜はなかなか寝つけなかった。起きているのに夢心地で、心のなかがひとつの思いでいっぱいになる。小狐丸がくる前の状況と似ているようで、正反対だった。
 あのころは何をそんなに不安になっていたのだろう。
 自室の障子を後ろ手にしめ、縁側に出る。ひんやりとした夜気が身をつつんだ。
 まるい月が出ていた。白くさえざえとした光も、地上へおりるまでに夜の暗さにかげってしまう。あたりを薄く照らす月光に右手をかざした。てのひらには、一期一振の切った傷あとがある。
「ぬしさま」
 とつぜん声をかけられて、驚きに手をひっこめた。その声を聞き違えるはずがない。
 小狐丸はいつの間にか審神者の私室に近づいていて、板張りの廊下を音もなくやって来たのだった。こんな夜更けに。戦装束とも内番着ともべつの白い寝間着が、月夜にぼんやりと浮かびあがる。
「ぬしさま、その右手は」
「ただの古傷だよ」
 もう治ったものだ。
 言い添えて右手を背に回す。それ以上の追及はなかった。
「よい月ですね」
 彼はふと夜中に目をさまし、障子にうつる月影がきれいだったから、こうして出てきたのだという。
「ぬしさまと共に見られればよいと思いました」
 いじらしいことを言ってくれる。けれど寝ているとは思わなかったのか。そう問えば、「分かりますよ」と、いたずらっぽく笑ってみせた。
「すこし、座りませんか」
 そういって小狐丸が早々に縁側に腰をおろすので、苦笑しながら隣へ行こうとした。すると手を引かれ、均衡をくずした体は小狐丸のひざの上に乗せられた。
「ああ、なんだこの格好は」
「ふふふ」
 体の前に彼の腕が回される。喉の奥で含み笑いをする小狐丸はいやに楽しそうだ。そういう趣向なのだろう、逃げられそうもない。息を吐いて軽く背をあずけた。かたい胸板の感触をはじめて知った。
 ふたりして空を見あげた。そのまま小狐丸は、ぽつりぽつりと話をした。
「昼間の稲荷ずし、おいしゅうございました」
「よかった」
「近頃のぬしさまは、粟田口のものらといることが多いですね」
「そうかな」
「ひとり占めしたくなってしまいます」
「よせやい」
 ふふふ。照れ隠しにふざけると、小狐丸は軽く笑った。彼が顔を動かすとよい香りがする。
 夜気の冷たさも、彼の腕にいると何ほどのこともなかった。じわりと伝わる体温。彼があらわれたときから、それはずっと慕わしかった。
「粟田口のみなといられるようになったのも、小狐丸のおかげだなあ」
 夜空に浮かぶ満月は白い穴のようで、見つめていると吸いこまれそうに明るく感じた。だからそんな言葉が口からすべり落ちた。言ってから恥ずかしくなったが、小狐丸は茶化さなかった。もの言わず、つづきを促してくる。
「小狐丸が来て、油揚げがおいしいと言ってくれて、一緒に大豆を育てて、楽しかった」
「ええ、私もです」
「ほんとうに、楽しかったんだ」
 刀剣男士というものを信じられるようになるくらい嬉しかった。戦場へ送りだし、また迎えることのほかに、ともに何かをできるのだと知った。そういうふうに過ごしたかった。人が人と過ごすように、心を交わしたかった。小狐丸はたったひとりで、それをすべて叶えてくれた。
 そう思うと、小狐丸はまるで人のようだ。
「どうかなさいましたか」
 顎をあげて小狐丸を見る。逆さの視界にいっとき映った彼は白髪に赤眼、月光を受けてほの白い顔色だった。
 なんでもないよ。
 前に向き直る。小狐丸はしばらく黙っていたが、ふいに投げ出していた右手にふれた。出会いがしらに隠した、傷あとのある右手に。ひざの上で手を取ったまま、指の腹で古傷をなぞった。小狐丸のよりもちいさな手のひら中央、一文字に走る皮膚の茶色い部分。
 それが刀による傷と小狐丸は分かっていたのか、つと手首を持ちあげると、手のひらにくちびるを寄せてきた。すこしだけ触れて、はなれる。
「癒してさしあげられたらよいのに」
 心底いたわってくれていた。美しい声でそんなふうに言われるとどうにもいけない。
 くちびるはもう離れたのに、右の手のひらがあつい。
「もう痛くないから、だいじょうぶ」
 ひとりうなずいて庭のほうに意識をむけた。満月の夜に沈む庭に風はなく、木立はただ佇み池は静かに凪いでいた。そのはずだった。
「あれは何だろう」
 ふしぎなものを見た。暗い池の水面に金色の光が浮かんでは、少しく尾を引いて消えていく。ひとつふたつ、みっつ。
「漁火のようなものです」
「池の魚をとるのかな。困るなあ」
「なに、悪さをするものではありません」
 小狐丸のひざに抱えられてその光を見つめていると、目がしぱしぱし始めた。「ぬしさまはもうお休みになられましょうか」おだやかに聞かれてこっくりとうなずく。すぐそばに自室があるのにひどくふわふわして、夢うつつの気分だった。
「お姫様抱っこをしてほしい、とな」
「言ってない……」
 軽口をたたきながらも小狐丸はやさしく背を押して、「おやすみなさいませ、ぬしさま」そっと障子をしめてくれた。





 遠征部隊が帰還した。
 その日はめずらしく、五虎退がひとりで遠征へ行きたいと申し出た。なにぶんめったにないことなので、庭先を出て門の近くまで迎えにいった。こちらを認めて顔をほころばせる彼の足元では、五匹の小虎が資材の入った小さな袋を誇らしげに背負っていた。
「あるじさま、ただいま帰りました……!」
 駆けよってくる五虎退にはひとつの傷もないようだった。彼はすぐ目の前で立ちどまると、ためらいがちに見あげてきた。
「あの、僕、あるじさまに、これを」
 五虎退が差し出してきたのは、白い花だった。大ぶりな花弁の先が割れていて、にんじんでつくった花に似た形をしていた。
「あるじさま、花が、すきなんですよね……」
 視線をあわせようとせず、五虎退は両手に花を持ったままかすかに震えた。その顔は真っ赤で、五匹の虎もそろって彼を見つめていた。
「ありがとう。大事に活けるよ」
「っ! はいっ、ありがとうございます……!」
 ちいさな手から花をやさしく引きぬくと、五虎退はぱっと顔をあげてお礼を言ってきた。そのひょうしに前髪がふわりと揺れる。やわらかそうな髪だった。
「あ、あの、あるじさま……」
 手をのばして触れると、思ったとおりに気持ちいい。指通りがなめらかで、なでるたびにふわふわといい心地だ。
 五虎退は耳まで真っ赤にして、肩に力を入れていた。嫌ではないだろうか。じっと見つめていると、視線に耐えかねたようにうつむいてしまった。そして下を向いたまま頬をほころばせた。
「……えへへ、うれしいです」
 かわいらしい。
 こんなことをずっと望んでいた気がする。最初に鍛刀した気弱な刀が、心を開いてくれたらいいと。
「あるじさま、あの、元気は出ましたか」
「うん。五虎退のおかげ」
 彼は目をぱちくりさせて首をひっこめた。頭のうえから手をどけると、五虎退は名残惜しそうにした。そして優しい感情をたたえた瞳でこう言った。
「僕、心配していました。あるじさまがずっと、元気がなくて……お部屋にこもっていたとき……」
 彼の口から出てきたそれは、もうずいぶん昔のことのようだった。そのころは刀剣男士に不審に似た思いを抱いていて、顔もろくに合わせようとしなかった。その間ずっと、五虎退はこちらを思いやってくれていたのだ。
「ごめん」
「そんなこと、ないです。僕、それで、思ったんです」
 五虎退は淡い金の瞳を上向かせ、しかと目をあわせてきた。
「あるじさまが、もう生きるのが嫌になったら、僕を自刃に使ってほしいって」
 ……一瞬、ひやりとした。
 自刃。
 五虎退はそんなことを考えていたのか、ということと、主はそんなことをしそうに見えていたのか、と。当時のことを思うと冷や水を浴びせられたような心地だ。
 それでもしだいに分かってきていた。その言葉が彼なりの親愛をあらわすものであると。たとえ人間とは違うものでも、心を通わせることはできると。
「……僕、最後まで、あるじさまにおともしたいです」
 その言葉にさみしさがにじんだ。そのとき死ぬつもりはなかったし、今もないということを伝えた。五虎退は心底ほっとしたようで、まなじりに涙をためていた。
「あるじさまが持っても恥ずかしくないようになりたいって、ずっと思っていたんです」
 ふたりで虎の背から資材袋をおろす間、五虎退はすこしずつ話した。
「出陣しても、ちゃんと成果をあげられるようにって……だから今日、ちゃんとできて、うれしいです」
 最初のころに出陣が嫌だとこぼしたのはそれが原因か。たずねれば、はにかみながらうなずいた。
 彼は不安やおそれによって戦いを避けていたわけではなかった。
 すると最初のころ、五虎退を子ども扱いして種々の遊びを教えていたことが急に恥ずかしくなった。けれどそれはそれとして、胸のうちを明かされた今は、もっと良い関係を築いていける気がした。
「僕、絶対あるじさまのところに帰ってきます」
 資材をひとまとめに抱えて五虎退はうれしそうだった。
「なにがあっても、帰ってきます。だから僕を、いっぱい使ってくださいね」
 足元に虎がすり寄ってきた。五虎退の言葉に呼応するように、こちらのすそを甘く噛む。ちいさなその牙は、決して傷つけてこなかった。





 五虎退が折れた。




 それを告げたときの粟田口の目が忘れられない。
 感情の抜けおちたような瞳でぽっかりと見つめられた。容貌のちがう彼らがそのときは一揃いの人形のように、まったくおなじ顔をして一斉に注視するのだ。
 謝罪の言葉は喉にはりついて出てこなかった。それをどう思ったのか、最初に口を開いたのは薬研藤四郎だった。粟田口のなかでも人形めいて色の白い、黒髪の少年。
「ああ」
 なんの感慨もなかった。ただ言われたことを聞いていたと示すため、打たれた相槌だった。
 洗濯物を出しておいてね。ああ、分かった。
 今日のごはんはハンバーグだよ。ああ。
 五虎退が折れたよ。ああ。
 知らず両手に力が入って、指の隙間から熱いものが流れ出た。
「主君、それはなんですか」
 平坦に聞く前田藤四郎を思わず避けた。前田は目をぱちくりと瞬かせると、首をのばして手元を覗きこんだ。
「けがをしていますよ」
 その報告に一期一振が歩み寄ってくる。思わずにぎり込んだ両手を隠そうとした。そんなのは無駄で、一期一振は「失礼」と一声かけてから指をむりやりに開いてきたのだが。
「ずいぶん切れていますね」
「ねえ人間って血を流しすぎると死んじゃうんだよね? だいじょうぶ?」
「薬研兄さん、お薬出してあげてください」
 誰も何も言わなかった。
 この手に乗っているものが五虎退の破片であること。同じ刀派の同じ短刀、兄弟刀、気づかぬはずはない。どうも思わないのか。気づいていてなお、五虎退のことに触れないのはなぜか。
 一歩、下がった。
「主君、どこへ行くんですか」
 前田藤四郎がふしぎそうに聞く。
「どこって、」
「その怪我じゃあ自分で処置できないだろう。俺がやってやるから、大将、ここ座れや」
「いや、え、だって……」
「?」
 粟田口の面々はみな一様に首をかしげてこちらを見るのだ。まただ。感情のない瞳。今このときが何事もない日常のひとつだとでもいうような。蚊にさされたから薬を塗ってあげるよ、それくらいの気安さで。
 でもだっておかしいだろう。
「五虎退は手入れしても直らないのに?」
 兄弟刀が折れて何も言わないなんて、おかしいだろう。
 粟田口の面々はしばし沈黙して、それから互いに顔をみあわせると、やはりふしぎそうにこちらへ向き直った。

「何を言っているんですか?」

 それからどうしたのか覚えていない。
 どうやって逃げたのか、まるで覚えていない。気づけば私室で、奥の部屋に続くふすまを背にして丸まっていた。入口からいちばん遠い場所だった。
 こちらを見やる端正な顔、顔、顔。一様に疑問符をうかべて気づかいの言葉を口にする異形のものたち。そればかりが頭のなかをぐるぐると巡っている。五虎退は折れるはずがなかった。重傷の進軍などさせなかったしその報告も受けなかった。
 “僕、絶対あるじさまのところに帰ってきます。なにがあっても”
 やさしい声を思い出す。
 手の中の破片からはなんの声もない。
 金の重歩兵を持たせた。お守りも。かえってきたのはずたずたに引き裂かれたお守りと、五虎退のかけらだった。審神者だから分かる。このかけらに五虎退はもういない。宿っていない。
 折れた破片で傷ついた手が血をにじませる。痛い。五虎退は二度も折られる痛みを味わったのだろうか。

「ねええ、あるじさまぁ、どこにいるのぉー」

 乱藤四郎が呼んでいる。
 障子のむこうにちいさな影がみえる。そういえば昔、戸をあけたら誰もいないことがあった。しばらく後にまた廊下を駆けまわっていたので障子をひらくと「主君!」笑いながら前田があいさつをしてくれた。五虎退はおずおずと顔を伏せて申し訳なさそうにしていた。

「どこにもいないなら、やっぱりお部屋かなあ」
「分からないな。結界が切れればいいんだけど」
「主君、主君」

 とんとん。ちいさな手が桟をたたく音がする。人払いの結界は機能している、はずだ。当てずっぽうで呼びかけているに違いない。
 障子にうつる影が増えていく。

「五虎退のことは残念でした」
「だが大将、俺たちは道具だ。五虎退はちと脆かったな。まあ、なんだ……気にすんな」
「そうそう、また呼んであげればいいんだよ!」

 元気づけるような明るい声が次々にかけられる。とんとんとん。誰かが障子を叩いている。

「ボク、あるじさまのこと好きだよ」
「いち兄も、反省してるんですよ!」
「反省しています。主、顕現したてのころはご無礼をいたしました……」

 障子をひっかく音がする。あかないよ。多分ここにいる。だってほかの部屋は全部あいたものね。
 そんなふうに無邪気な声が話している。

「ねえ、あけて?」

 ……そういえば、五虎退の出陣に粟田口の面々はいなかった。戸のむこうで交わされる言葉に意識を向けないようにして考える。
 実際に破壊されるところを見ていないから、平気でいるのだろうか。それともほかに理由があるのだろうか。
 どちらにせよ今は顔を合わせられない。このような状態で主を名乗れるはずもない。
 その隊には誰がいただろう。歌仙は、違う。練度が上限に達して久しいから、しばらく本丸での仕事をしてもらっていた。ひとりだけは覚えている。その刀が五虎退をつれてきてくれたのだ。何か気づかわしげに言ってくれたおぼえがある。ろくに答えもしなかった。あの刀は、やさしくしてくれたのに。

「小狐丸……」

 口の中でつぶやいた。
 その瞬間に、背中にかかる重みが消えた。背にしたふすまをあけられたのだと分かったのは、倒れこむ視界にその顔がうつってからだった。
「はい、ぬしさま」
 小狐丸の赤い双眸がこちらを縫いとめるように向けられた。目があった。異形の瞳。人の姿をした刀。それはふわりと身体を受け止めると、確かめるように抱きしめてきた。
 よい香りがした。恋文をあけたときに立ちのぼる文香のような、慕わしくも上品な香りが。
 それが笑うと白い牙がのぞいた。赤い瞳に歓喜をにじませて、腕に抱きとめた体をやさしく床に倒した。豊かな白髪がこぼれかかり、よい香りはそこからただようのだと分かった。
 大きな体に被さられて見えるものは影ばかりだ。うす闇の部屋にこごる、かすかな影だ。それは組み敷いた体に手を這わせ、何もかもの自由を奪おうとしていた。
 
 肩越しにみた自室の机に、五虎退のくれた花が活けられていた。白くつややかなその花弁は、すこしもしおれていなかった。




 ここはずっと夕やみだ。
 もとは自室だった気がする。よく覚えていない。小狐丸のひざに抱かれて、くしで髪の毛をとかれるうちに、自分からもあの香りがしてくることに気がついた。恋文に添える香のようなそれは、小狐丸の体を伝ってこの身を染めようとしている。ふしぎなことに、そのかぐわしい香りはいろんなことをぼんやりとさせる。耳元でささやく声だけが、頭にするすると入ってくる。

 ぬしさま ずっとこうしたかった
 私を信じて心を預けてくださる なんと愛しいこと
 知っておりますか 神と人は一度交わっただけで孕んでしまいます
 はい、そうです 男女の別はありませぬ
 あわれでなりませんでした
 人の子の 肉の器にとじこめられているぬしさま
 こんなに慕わしい霊力をもっているのに 清らなたましいがあるのに
 これでこの小狐とまじわった ぬしさまもこちら側へ来られます
 たのしみですね
 たのしみですね……

 歌いあげるように小狐丸はささやいて、大きな手で腹をなでてくるのだった。いつくしむ手つきなのに、内臓をじかに触られているような、魂をにぎり込まれたような、そんな気がする。
 ときどき両のてのひらに触れられる。小狐丸の手の中におさまる自分の手には傷ひとつない。ここにはいつか、茶色く変色した古傷があった気がする。なにかを握っていっぱい血を出した気がする。
 もう何日もなにも食べていない。それなのにぼんやりと満ち足りている。
 時間の流れも分からない。
 ここはずっと夕やみだ。黄昏のほのかな闇をさす、金色の明かりがぽつぽつと浮かんでいる。
「あれは迎え火ですよ」
 以前にも見てはいなかったか。
「ええ。ぬしさまの目には見えるようになりましたね。約束を交わし、心を交わし、神気のまじったものを食べましたゆえ。ほかのものにも同じことをしますから、不安になることもありました」
 それは嘘だ。小狐丸は不安になったことなどないだろう。
「ばれました」
 おどけて言うので、小狐丸は楽しいのだと思った。夕やみの部屋でずっと楽しいなら、いいことかもしれない。ああでも、もうすぐに違う場所へいくのだったか。迎え火がきた。あれは伴侶を迎え入れる火だという。


「主」


 聞き慣れない声がした。いや、聞いたことがあるかもしれない。いろいろな小言を聞いたけれど彼の言葉はむずかしくて分からないこともあった。
「だから言っただろう、主としての自覚が足りないと」
 その声をきいてから小狐丸のまとう空気が変わった。血の気を含んでぴりぴりする。
 向こうの部屋に明かりがさしていた。迎え火よりもずっと明るい、白い光だ。そこにたくさんいた。いちばん前にいたのはちいさな白い狐だった。その脇にふたり控えている。
 むらさきの髪で不機嫌そうな青年と、水色の髪でひざをついて何かを見ている青年。痛ましげな表情だ。机に花瓶が載っていて、その下に黒く燃え落ちた何かがあった。大切なものだったのだろうか。
 彼らのうしろにはたくさんの人がいて、そっちには見覚えがなかった。
 小狐丸が背に隠すよう立ちふさがったので、もう何も見えなくなった。彼は怒っていた。
「今さら何をしに来た。絆を遠ざけようとした輩。ぬしさまを傷つけることでしか、情を示せなかった臆病者が」
「はあ。こういう面倒は、まったく雅じゃない……」
「ほとんど神域ですな。こうしていれば五虎退も……ああ、何でもありません歌仙どの。政府の皆々様も、お納めください」
 聞きとれたのはそれくらいだった。なんだか眠くてたまらない。
 最後に見たものはあたりを取り囲む狐火と、それら小さな火の玉がぽつぽつと消えていくところだった。意識が暗く落ちていく。本丸。解体。政府。そんなことを、誰かが言っていた。



 目が覚めたらすべて夢だったような気にもなった。
 現世の病院は白く清潔で、身のうちにとり込まれた神気も寝ている間にすべて祓ってしまったのだという。すっきりとした目覚めで、しばらくはもう何が何やらという感じだった。そしてすべてをベッドの上で聞いた。
 備前国〇〇二一七号本丸は解体になったこと。初期刀だった歌仙兼定の通報で事態が明るみに出たが、ことは単純に進まなかった。審神者の張った人払いの結界と小狐丸の神域が混じり合っていて、こじ開けるのに時間がかかった。
 あと少し遅ければ神隠しだったこと。
 残された刀剣は政府の手によって刀解され、本霊へ還ったこと。
 ただ一振、小狐丸だけが破壊対象となり、安らかな最期を迎えることはなかったということ。
 聞いているうちに色々なことが現実のものとして認識されてきた。
 たとえば五虎退は、まだあの本丸にいたのだという。五虎退に手渡された白い花。あそこに神気の一部をのりうつらせて、たとえ破壊されても魂が残るように、鍛刀すれば必ずあの五虎退が戻ってくるように、花のなかで待っていたらしい。粟田口の面々が妙に冷静だったのには、そんな理由があったのだ。
 結局その花も小狐丸が燃やしてしまって、実現しなかったのだが。
 言うまでもなく五虎退破壊の手引きをしたのも小狐丸である。
 そこまで聞いて、もう自分はとても審神者には戻れないと思った。政府も同じ考えだった。たとえ戻ったところでどんな祟りがあるか分からない。神域に近づくのはもうやめたほうがいいだろうと。
 もうひとつ、気になることがあった。
 靄がかったようにしか思い出せないが、確かに小狐丸は自分の体をもてあそんだし、それも一度や二度のことではなかった。それでなくとも、神と人が交われば性別や年齢の別なく必ず孕んでしまうという。小狐丸が腹をなでていた感触をおぼえている。取り返しのつかないものを触られているようなおぞましさも。
 政府のほうもそれを恐れていたようで、神気を祓うときに精密検査をおこなったらしい。

「想像妊娠でした、大丈夫ですよ」

 医師はとりなすように明るく言った。実際、どの検査にもそれは引っかからない。写真にもうつらないし音もきこえない。現世のどんな機器を使っても。
 それなのに、日に日に胎動は強くなる。
 
 ……近頃、よく考える。小狐丸は本当に破壊されたのだろうか? 折れた刀身は見た。幾重にも封印をほどこされたそれは確かにあの小狐丸だったろう。しかし、破壊の実態については誰からも聞くことはできなかった。みな一様に口をつぐみ、もう忘れたほうがいいとそう言うのだ。
 あの本丸ですべてを見たはずの歌仙も、一期も、もういない。
 だからきっと誰も知らない。
 人と約束を交わし、情を交わし、審神者の霊力をとり込んだものは、残留した短刀の魂を狐火で燃やしたそれは、本当にただの刀剣男士だったのだろうか。

 ベッドに身を起こして下腹部に手をあてる。こと、こと。かすかな鼓動とともに、何ものかが身じろぎをしている。
 この肚の中には、何がいるのだろうか。
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